筑紫さん

僕が大学に行こうと思ったのは、筑紫哲也のニュース23という番組がきっかけだった。   高校三年生になった頃から大学に行こうかなと漠然と思うようになり予備校に通い始めたものの、たいした目的もなかった僕はそれまでの遊び癖が抜けなかった。そんな感じで、1月のセンター試験も英語は90点(200点満点)ぐらい、古文に至っては一問正解、という散々な結果に終わった。   そのセンター試験の直前だったと思うのだけれども、なんとなく部屋でテレビを見ていると、アフガニスタンの空爆に関する特集が組まれていた。 かなり昔のことなので記憶は曖昧だが、アメリカでのアフガン空爆に関するインタビュー(アフガン空爆は当然だとい...

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分岐点

就活で久々に横浜に行った。   セミナーのあったビルは、浪人時代に100円弁当を買っていた場所のすぐ近くだった。お昼時になると、弁当を売りに何台かの車が来ていたのだ。 バイトもできず本当に金のなかったあの頃、昼の一時過ぎにオフィス街に行き、柱の影から弁当が100円まで下がるのを待っていた。 それでも、何かを掴もうと、もがいていたあの頃は、行き場のなかった高校時代よりも幸せだった。   その夜はいつものように、近所のマックに篭ってエントリーシートを書いたり業界研究をしたりしていた。   深夜0時を過ぎると、15,6歳の若者たちがやってきて、100円のハンバーガーをかじった後に、机の上で眠りに落ち...

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過去と出会う

あるパーティでの二次会でのこと、酔っ払った弟が私の高校時代をおもしろおかしく、周りの人々に語り始めた。   小学校を卒業してから弟とは年に数回しか会っていない。 それなのに、全てを知っているかのように、でも事実誤認をたっぷり含みながら、私の過去を「笑い話」として語っていることには腹が立った。   私には語りたくない過去や乗り越え切れてない過去が多すぎるわけで、もっとデリカシーをもってほしいなと思った。 少なくとも、誰にも頼らずに1人で生きてきた12歳からの時間を、軽々しく他者の口から語られたくはなかった。       そのパーティには、私と同い年で地元も同じ女性がいて、地元や共通の知人の話に花...

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私の高校時代

いくつかの公立進学校の三年生の生徒が、文科省が定めた卒業までに必要な科目を履修してなかったことが分かり、マスコミが騒いでいた。 何らかのインデックスを用いて教育の達成を評価をするのは当然のことなので、問題視されてしかるべきなのだけれども、個人的には「たいしたことでもない」気がしてしまう。   公立の学区下から三番目の高校に通っていた私は、高校一年生の途中から、あまり学校に行かなくなった。 別にイジメに合ったとか、引きこもりだったというわけではない。 毎日朝まで遊んでいたため、起きてテレビをつけると「笑っていいとも」が終わっていたのだから、必然的に学校に行けなくなったということだ。 そして高校三...

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欠落を抱えながら

一つの恋が完全に終わった。元々終わった恋だったが、それを確かめた。 結局、私は1人の女性すら心の底からは愛せなかった。   私はただ、私をありのままに承認して欲しかっただけ。他者を愛せない欠落だらけの姿も承認してくれたのなら、私は人を愛せるようになれたのかもしれない。     求めていたものは、全面的な承認だった。でも、それは求めすぎだった。       最近親しくなった友人が、私のブログを見たときにメールをくれた。   その子の前の彼氏も、私と同じような過去を持ち、それがトラウマとなって同じように欠落を抱えながら生きてながら生きてきた。しかしそれでも、彼女と出会い少しずつ他者を愛し受け入れる...

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高校時代のどうしようもない思い出

先週、慶応SFC(スーパーファミコン)の文化祭にて当団体がイベントを行った。ドキュメンタリーのビデオ上映やら、いくつかの展示を行った。   SFCのある藤沢は、私が中学三年~大学に入るまでいた街。良いことも悪いことも、全てが思い出される。   SFCは湘南台駅からバスで15分ほどのところにあり、見覚えのある風景が通り過ぎる。 大学の近くに高校時代の同級生が住んでいた。彼とはよくこの湘南台でナンパした。   大学向かうバスはあるカラオケ屋の近くを通った。そこが彼とナンパをして最も成功したスポットだった。             思い出すのは16歳の夏。深夜3時半。私はこのカラオケ屋にいた。 彼(...

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朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり

最近、高校時代の友人と連絡をとることが妙に多かった。そのたびに多くの人から過去との比較をされる。「変わったね」と。   国際協力やら学問やらに夢中になっている自分を発見するたびに、その理由を問いただす。そこから見えてくるのも自分の過去。   あの頃を思い出すと、自分の居場所が見つからない虚無感、誰からも愛されていない必要とされてないという不安、様々なものが未だにありありと蘇ってくるのが不思議だ。高校を卒業してから早三年半、ずっと封印していたものが少しずつまた目の前に迫ってくるのを感じる。   夏会議の最中、あるメンバーから言われた言葉があった。 「安田さんってダンゴ虫みたい」 的確な表現だと思...

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怒り

私の「人生コンサルタント」として、いつも色々と相談にのって頂いている方がいる。3ヶ月前まで某国の日本大使館で専門調査員として働かれていたK氏だ。そんな彼から「お前みたいなのが、なんで平和活動みたいなことやってんの?」と聞かれた時、「感情の問題だと思います。」と答えた。「それって怒りだろ?」   私は別に人を幸せにしたいとか、そういった感情はあまりない。ただ不条理なものをみると怒りがわくだけで、それは私の家庭環境とかに由来するのかもしれないしそれはわからない。 そしてその怒りはイスラエル・パレスチナの情勢だけでなく団体内での出来事でも同じことだ。気の優しいメンバーや立場の弱い後輩が、立場の強い他...

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母校へ(1)

今週のはじめ、高校に行った。当団体で8月に行うシンポジウム、交流会に先生・生徒に来てもらいたかった。   藤沢・鎌倉地区で下から三番目(当時)の、お世辞でも優秀とはいえない公立高校だったけど、先生方には本当にお世話になった。そんな先生方に、少しはマトモになった教え子の姿を見て欲しかった。       高校時代、家に居場所がなくフラフラしていた私に何かと声をかけてくれた先生がいた。出席が足りず学力が足りず、気力も足りない私になにかと目をかけてくれた。毎学期の期末テストの返却の際には、白紙で出した答案の裏にビッシリとメッセージが書き込まれていたのを思い出す。   そんな私も高校二年生の終わり頃、「...

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余命二年

僕には、一般的に「母」と呼ぶべきであろう人が三人いる。お世辞でも「恵まれている」とは言えない少年時代をすごした帰結である。今日は二番目の母、現在も戸籍上は「母」となっている人物について、ほんの少しだけ書いてみる。 考えてみると、僕は自分の家族について多くを語ることを拒否してきた。まだ自分の中で受け止める土壌ができてなかったからだ。けれども、これから少しずつ受け入れていかねばならないのかもしれない。もうそうしてもいい時期だ。 二番目の母と出会ったのは僕が高校一年生の夏であった。父の再婚相手として知り合った。そしてそれから僕が高校を卒業するまで共に過した。 僕はこの母を嫌っていた。嫌うなんて言葉じ...

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