7年間を支えてくれた人たち

少し早いけれども、弊社キズキのOBOGに 誕生日を祝ってもらった。 2010年、会社を休職し鬱病の中にいた僕は、2011年に自分の人生をやり直すために起業し、そこから2年間、必死に働いた。 祝ってくれたOBOGの一部は、その当時大学に通いながら、インターン・アルバイトとして支えてくれた子たちだ。 2013年は一時的に疲れから怠けたけれども、2014年から2年間は日本の事業を拡大させながらも、海外進出にチャレンジした。たくさんの学びはあったけれども、国内事業とリソースが分散してしまい、海外事業が大きく伸びることはなかった。 これをただの挫折に終わらせないように、再びチャレンジしなくてはいけないと...

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15年前の記憶

川崎市で13歳の少年が殺されてしまった事件は、僕の遠い記憶を呼び覚した。 中3の時に寮を出て祖父母の下で暮らすことになった僕は、地方都市の公立中学に転校した。親もいない、友達もいない、そんな孤独だった僕に話しかけてくれたのは、同じ中学のA君だった。どこに行ってもいつも孤独を感じていた僕は、A君やその友人たちと夜のコンビニにたむろするようになった。 転校して2か月ほど経ったある日、A君が先輩から借りた原付に乗って、隣の中学の女の子たちと遊んでいると(もちろん無免許である・・・)、A君が転んでしまった。幸い大きな事故にはならなかったのだが、問題はA君が後ろに乗せていた女の子がB氏という暴走族メンバ...

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3月9日

3月9日は親友の命日だ。 2年前の今日、僕は生まれて初めてできた友人を失った。 高校を中退した後も、鬱病に苦しんでいたのを聞いていた。でも10年ぐらい、会えていなかった。 そして2010年3月9日、抗鬱剤を摂取しながら泥酔したことで、器官に食事が詰まり、亡くなった。 http://yasudayusuke1005.wordpress.com/2010/03/15/shinnyuunoshi/ 社会から外れてしてしまった若者たちを支援するような仕事がしたいと思うようになったのは、この時からだった。 ****** 二年が経った今も、 「彼に恥ずかしくないような生き方ができているか」 と、ふとした瞬...

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「頑張れない」ということ

ワタミの一件から、「頑張る」と「鬱」について、よく話題に出るようになったと思う。 僕自身、2011年の下半期は、「もう倒れるかな」と思うほど頑張って働いた。 平均睡眠時間は3時間程度、朝寝て朝に起きる生活が続いた。 そのおかげで、起業から一年半の今では、心の底から意義があると思える事業で、生きていくには十分のお金を稼げるようになった。 でも一方で、「頑張れなかった」ことも、これまでの人生でたくさんあった。 特に、2006年のルーマニア時代、2009年の商社マン時代はひどかった。 ****** 2005年大学二年生の頃、僕はイスラエルとパレスチナで学生NGOの代表をしていた(といっても、先輩が設...

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起業までのこと

先日、母校の学生新聞にインタビューして頂きました。 就活生に向けた記事です。 偉そうに喋りすぎていて恐縮なのですが、転載致します。 http://subsite.icu.ac.jp/org/wg/index.html ****** 11月に入り、学内にもスーツ姿の学生が散見されるようになってきた。いたるところで、就職の話をしている学生も見られ、就職活動が徐々に始まってきていることを窺わせる。読者の中にも、すでに就職活動を始めている人もいるだろう。しかし、一般企業への就職だけが、社会に関わる生き方という訳ではない。今回は少し視点を変えて、ICU卒業後、総合商社を退職し「NPO法人キズキ」を立ち上...

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迷い続けた二年間

2009年からの二年間は、迷い続けた時間だった。 2009年4月に人より3年遅れてサラリーマンとなった。「商社マン」というやつだ。 生意気な話だけれども、学生時代から「時給」で働いてこなかった僕は、「社会人になる」という気負いが全くなかった。 (ただ、「少なくとも数年間は拘束される」という強迫には苦しめられた。今でも2009年3月31日の夜の不安は、覚えている) ****** 正直に言って会社はつまらなかった。 このまま自分がツマラナイ大人になってしまうのか?と毎日悩んだ。 夜は毎日会社近くのタリーズで、ノートを広げ、半年後・一年後・二年後・・・のありたい・あるべき自分の姿を書き続けた。でも、...

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親友の死

この四日間、ずっと泣いていた。 今までの人生で流した涙の総量を超えたと思う。 生まれて初めてできた友達が死んだ。 僕は4歳から小学生の頃まで、横浜の郊外にあるマンションに住んでいた。 そして、僕の家族と同じ時期に引っ越してきたのが彼とその家族だった。 彼は僕の弟と同い年で当時一歳、僕は四歳で、彼の兄は三歳だった。 引越した当日から、仲良くなった。そして四人は兄弟のようにして育てられた。 放課後は毎日のように缶けりやら、泥警やらで遊んだ。 GWになれば一緒に旅行に行き、クリスマスの夜は毎年一緒に過ごすことが決まっていた。 当時はまだ僕の両親が離婚していなかったため、彼の家族と僕の家族が一緒に夕飯...

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戻らない青春

「のだめ」の映画を見に行った。 オーケストラの演奏に酔いしれ、夢を追う登場人物たちの姿に美しさを感じていた。   同時に、僕にもあんな風に夢を追いかけていた時期があったな、と少しだけ寂しくなった。  そして、またいつか輝ける日が来るのかなと。   ******  「大人になるっていうことは、色々なものを棄てていくことなんだよ」 ある人が言っていた。 その通りだと思う。   そして僕は肉体的にも精神的にも限界があることを認識しているし、いつまでも過去の思い出にstuckしていちゃいけないことは分かっている。 けれども、まだ自分の人生に諦めをつけきれてはいない。...

ある高校時代の経験

ICUのウェブサイトには書いているのだけれども(http://subsite.icu.ac.jp/prc/mail_magazine/contents/081030/yashuda/yasuda_01.html)、僕は18歳までどうしようもない生活を送っていた。 毎晩駅でたむろしたり、暴走族の下っ端みたいな感じでバイクを乗り回したり、学校にも行かず鬱屈した毎日を送っていた。   そんなある晩、とある暴走族のメンバー(仮にA君としよう)とその仲間たち三人と江ノ島で遭遇してしまった。 当時A君とはカンパ(上納金みたいなもの)に関してもめていたため、最も会いたくない相手だった。 4対1の喧嘩になった...

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旧友

夕方、突然小学校時代の友人から電話がかかってきた。 放課後、毎日校庭でサッカーをしていた仲間だ。   彼とは小学校を卒業してから会ってないのだが、20歳の頃、一度電話があった。 ちょうど僕は大学に合格した頃で、彼は医学部を目指して三浪目を決めた時だった。 お互い落ち着いたら会おう、と話していた。   そして5年後の今日、再び電話があった。 「進路が決まったら連絡しようと思っていたが、タイミングを逃して今日になってしまった」と謝られた。 結局、彼は四浪して北陸地方の国立の医学部に合格、現在は四年生だという。 二浪している僕には、四年間自分を信じ続けるつらさが分かる。二浪目の後半でさえ、かなりつら...

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