I arrived at Dhaka at 1 am. I went to the hotel where I usually stayed. It was the 5th times that I have been to Bangladesh. After I slept for a few hour, I went to meet some of my Bangladesh friends. when I chat with them, time pass so quickly. First, I met Kalid, who have helped to make the ...
...3月のバングラデシュ 1
来週から、またバングラデシュに行くことになると思う。もう五回目だ。 三回目、四回目の訪問についてブログでは何も書いていなかったのを、ふと思い出した。つらかったことも、楽しかったことも、たくさんあった。どれも僕にとっては忘れたくない大切な思い出なので、記憶を掘り起こして書いてみることにする。 今年の春は3月1日から4月8日ぐらいまで、僕は日本を離れていた。例年この時期は花粉症を避けるために、海外にいるようにしている。 香港経由のキャセイパシフィックでバングラデシュに着くと、予め連絡をしていた現地の旅行代理店に向かった。この春はどうしても、バングラデシュとカンボジアを再訪したかった...
...独り言
先月24歳になった。 23歳の一年間は、本当につらかった。 23歳になる直前は日本にイスラエル・パレスチナ人を招致して、個人が動くことで社会が変わるんだって確信を持って、その後は新聞やテレビやラジオに出演したり、某学会に招かれて九州まで講演しに行ったりして、人に伝える意義を感じて、23歳になるとルーマニアに行って挫折して、でもそこから帰国してすぐに某NGOに招かれてアメリカに行っていた。 常に自分が前進している実感があって、その先の未来を信じていた。いつも何かを感じて、何かを学んでいた。 23歳の一年間は映画を作ったりはしていたけれども、とくに何かをしていたわけではなかった。小...
...ある授業にて
大学生らしく、大学の授業で思ったことを書こうと思う。 先週ぐらいに、ある授業でフェミニスト某教授がお怒りだった。 事の発端は、ある生徒がコメントシート(出席代わりになる)を人に預けて出したとのこと。 預けられた人が、そのコメントシートに「この人は私にコメントシートを預けていきました」と書いて提出したらしい。 「ICU生がそんなことをするなんて信じたくないが・・・」と説教が始まった。 大学にも、勘違いしている教師がいるのだなと思った。 授業中寝るのも、授業に来ないのも、教師の授業がつまらないからだ。 少なくとも僕は、本を読んだほうが早い授業には、基本的に出ない。 出席なんて取らな...
...自己実現なんていらない
僕が見るニュースは、神保哲夫さん(実は大学の先輩でもある)のビデオニュース・ドットコム(http://www.videonews.com/)ぐらいなんだけれども、その先日の特集がおもしろかった。派遣労働でなんとか食いつなぐ現代の「貧困」者についての特集だ。 一度「貧困」に陥ってしまった結果、「自分自身からの排除」という現象が発生し、貧困に陥ってしまった自己に対する信頼が低下してしまう。それが、この「貧困」の大きな問題である。彼らが抱えている問題は、単に金銭的な貧困ではなく、自己嫌悪という精神的な問題なのだ。これに対して宮台が述べていたのは、「努力して成功した人も、努力して失敗した人も、...
...ミャンマーにて
8月15日ぐらいのことだったと思う。 僕はミャンマーの首都ヤンゴンにいて、帰国の便に乗るために、ゲストハウスの前でタクシーを拾った。 ゲストハウスの従業員に空港までのタクシー料金の目安を聞いていて(ミャンマーのタクシーは交渉制)、それは確か5000チャットだったと思うのだけれども、僕の前に止まったタクシーの運転手は、「7000チャットだ。」と答えた。 僕が「5000チャットのはずだ。」と反論すると、「今日からガソリンが値上げされたんだ。」と彼は答えた。 観光客だから騙されているのだと思い、「他のタクシードライバーに聞いてみるよ。」と僕は彼に言った。 僕の周りにはすでに何台かのタクシーが集ま...
...ドキュメンタリーについて
演劇を見た。 空間を、演技や音や踊りで、目いっぱいに表現していた。 こういうことが、やりたかった。 ドキュメンタリーを創ろうと思ったのは、別に「世界の貧困や紛争を伝えたい」とかそんな崇高な動機ではなかった。 国際関係論を学ぼうと思い大学に入ったものの、結局は文学や哲学、人類学など、「思想」を扱うものに興味がうつった。 人は何のためにこの社会で生きていて、何を求めていて、何を感じているのか。 社会とは何か、他者とは何か、自分とは何か。 うまく言葉にできない気持ちを表現しようと思ったら、いつのまにかドキュメンタリーにいきついた。 僕が思考を始めたのが、身近な他者を含む「世界」との関わり...
...夢に生きて、死ぬ
僕は高校のころ、本当に頭が悪かった(今以上に) テストの点数は基本的に一桁だった。選択肢の問題しか、正解できないのだ。 特に高二から高三にあがるときは、大変だった。成績が赤ばかりで、かなりの数の科目で追試やら補修やらを受けることになった。 数学の追試の前日、教師が僕に言った。 「追試は期末テストと同じ問題を出してやるから、暗記してこい。」 頑張って暗記したけれども、70点が関の山だった。 高校を卒業して大学受験の勉強をしてから、あの時の曲線のグラフが「微分積分」と呼ばれるものだと知った。 高校の頃から本当にお金がなかったので、バイトはかかせなかった。 ファーストフードの厨房、レスト...
...「強さ」について
僕がイスラエル・パレスチナの人たちから、バングラデシュの人たちから学んだこと、それは「強く、そして優しくある」ということだった。彼らは過酷な状況にありながらも、人に優しくあり続ける「強さ」を持っていた。 社会から差別されながらも兵役を拒否し続けていたイスラエルの友人や、友人や家族が殺されながらもイスラエルと対話を続けるパレスチナの友人、そして社会に見捨てられながらも希望を捨てないバングラデシュの娼婦街に生きる人たち、僕が彼らから教えられたことは、とてつもなく大きかった。 小さい頃から僕は、「自分が周りからどう見えるか」ということばかり気にしてきた。誰にも負けたくなかった。本当に大...
...取材中の死
昨日の朝日新聞を読んでいたら、ミャンマーで殺害されたジャーナリストの長井さんは、「イスラエルで催涙弾の中を取材していた」とあった。そして、昨夏、僕と入れ違いでパレスチナにいたS氏は、現地で長井さんに会っていたらしい。 長井さんも、ビリン村で取材していたのかもしれない。僕もビリン村で催涙弾に苦しんだ。ゴム弾の中を逃げ遅れて、隣でイスラエル兵が銃を構えているのを見た時は、ほんの少しだけ「死」を意識した。 考えてみると、ミャンマーにいた時期もパレスチナにいた時期も、長井さんは僕と一ヶ月違いだ。 もちろん僕は高尚な目的があって現地にいたわけではないけれども、もし僕が一ヶ月遅れて、今ミャンマーを旅行...
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