急なんですが、次回の勉強会は今週木曜日(21日)の開催となりました。
次回は、おにぎりを持って一人一人のホームレスの方々に話しかけ、インタビューを行う予定です。
(前回協力頂いた、山谷の労働組合とは無関係に行われます)
開催は夜8時頃からの予定です。
インタビューの後、希望者で山谷のドヤ街(簡易宿泊所)に宿泊し、翌日の早朝、ホームレスの方々の仕事探しを見学します。
次回は、おにぎりを持って一人一人のホームレスの方々に話しかけ、インタビューを行う予定です。
(前回協力頂いた、山谷の労働組合とは無関係に行われます)
開催は夜8時頃からの予定です。
インタビューの後、希望者で山谷のドヤ街(簡易宿泊所)に宿泊し、翌日の早朝、ホームレスの方々の仕事探しを見学します。
(翌日金曜日は仕事のある方々がほとんどだと思いますが、ホームレスの方々の仕事探しが平日の早朝に行われるため、このような日程設定となってしまいました)
参加できそうな方は、
までご連絡下さい。
(なぜか前回のエントリーがMixiに反映されないから、告知できてるか不安)
遅刻、早退は自由です。
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久しぶりに「ノルウェイの森」を読んだ。
2年おきぐらいに読み返す本なのだけれども、その度に新しく感じることがある。
「直子」との関係の中で、それでも「僕」を現実とつなぎ合わせてくれたのは「ミドリ」の存在だった。
ポストモダンの現代では、あらゆる物事は突き詰めると全ては「無価値」となってしまう。けれども、他者との関係性だけは、「無価値」になりえない。
だから人は生きていく。
2009年5月19日
>「直子」との関係の中で、それでも「僕」を現実とつなぎ合わせてくれたのは「ミドリ」の存在だった。そう願いたい、というワタナベ君の願望が「ミドリ」という女性に投影されていると思います。この小説の最後を思い出してください。日本海を放浪して、音信不明になり、ごみのような存在に自分を落とし、素朴な漁師に母親が死んだと嘘をついてもらった鮨を食べる自分への自己嫌悪から、東京に戻り、現実に帰ろうと決心したワタナベ君が、最初にしたことは「ミドリ」に公衆電話から電話をかけて、謝罪することだった。そして「ミドリ」はワタナベ君に問いかけるのです。「あなたは、いったいどこから私に話しているのか、分からない、あなたはどこにいるの?」ワタナベ君はその「ミドリ」の問いかけに言葉を失い、公衆電話に立ち尽くし、答えを探すのです。「いったい、ボクはどこにいるのだろうか?」そして、スプートニクの恋人に再び登場したワタナベ君らしき主人公は、いろいろな女性遍歴に疲れ果て、再度、「ミドリ」らしき女性を求める決意をして、親友だった「ミドリ」らしき女性、消息不明になった「ミドリ」らしき女性を探すためにギリシャに旅立ち、そして知るのです、もはや、この世には「ミドリ」すら存在しなくなったことを、「ミドリ」すら永遠に失われたことを。私には、「ノルウェイの森」のエピローグのバージョンのひとつが、「スプートニクの恋人」と思えて仕方ないのです。恋愛によって、人が救われることはありえない、という過酷な真実、それでも人は人を求めてさまよい続けるしかないのでしょう。その絶望を突き詰めようとした実験作が「ねじまき鳥クロニクル」だと思います、が、あれは長すぎて、ストーリーを持った文学作品として成功したとは思えませんね。でも、「アフターダーク」には、人が人によって少しでも救われることはありうるのではないか、しかし、それは男女の性愛関係を超えた、特殊な愛情を持てる人間関係なら、人は多くを期待しないからこそ、ほんの少しの救いがありうることに希望を見出そうとする、ある意味での「家族再生」ストーリーだと思います。それを昇華したのが、ハルキの集大成の「海辺のカフカ」ではないでしょうか?家族によって人は破壊されるが、家族や男女性愛を超越した、人と人とのつながりによって再生された擬似家族によって、人は生き延びることができることに最後の希望を残したい、そんなハルキの読み方があってもいいかな?俺があまりに家族にこだわりすぎているのかもしれない。でも不思議だよね?ハルキは決して自分の原家族を語らないし、それがトラウマであったとも言わない。じゃ、どうしてハルキはあそこまで人との関係を求め、絶望し、傷つく人生を書き続けるのか?彼の自我が、あまりに繊細すぎるからなのであって、現家族トラウマは一切抱えていないのか?でも、「海辺のカフカ」のカフカが抱える家族の闇のリアリティーはなんなんだろうか?ハルキはとても不思議な作家です。
2009年5月23日
僕はそれほど春樹が好きというわけではないので、鬼頭さんの分析は分かりかねます。まぁ文学というのは人それぞれ、読者の背景に合わせた解釈が存在し、その解釈が多ければ多いほど優れた文学と呼べるような気がします。