かけがえのない自己とは

「この世からきれいに消えたい」 藤井誠二・宮台真司共著 
 
去年読んだ中で最もおもしろかった本だ。
私が所属していた某学生団体の一部のメンバーの中でも、密かなブームが起こっている。
それに関連して、昔考えてたことを書く。
 
 
 
高校時代、私はかなりの数の女性と付き合った。高校一年生の時だけで二桁は超えた。
 
今から考えてみると、人間の思考パターンを知りたかったのだと思う。
「こういう家庭環境に育ったから、こういう性格なのだ。」
「私がこういう行動に出れば、彼女はこういう行動に出る。」
 
どこにも居場所がなく世界を悲観的にみていた当時の私は、全てを実験と捉えていた。
 
そしてその結果、人間は「ある程度」類型化できることを知った。本を読んで知る前に、経験知として知った。
 
 
 
 
 
人間の存在は社会によって規定され続ける。
 
 
裏を返せば、「私」という存在でさえ類型化されてしまうもの。例えば、ACの定義を見たとき、まさに自分だとも思った。私のような人間など、他にいくらでもいる。
 
そう考えてみると、生きていることに「意味」を求めることもばかばかしくなってしまう。
 
しかし、それでも私は「意味」を求め続けている。かけがえのない自己であることを望むのだ。
だからこそ「自分にしかできないこと」を求め、日々活動をしているのかもしれない。
 
 
 
社会システム理論の世界では、個人の体験や経験の様式は「システムの所産」となるらしい。
そこに「自己のかけがえのなさ」など、介在する余地があるのだろうか。
 
これから勉強を重ねたい。
 
そして、全てを知ることで自由になりたい。

3 Comments

  1. 沙織
    2006年1月9日

    やっさん♪Gこと前田君発見しました☆URLはこちらhttp://mixi.jp/show_friend.pl?id=2107807

    返信
  2. 沙織
    2006年1月9日

    全てを類型化か・・・元カレも似たようなこと言ってたよ。自分は最高のポストについてる人から一番下っ端、例えば刑務所行って来た友とか・・・の人まで、あらゆる人と接し、いろんな女と付き合ってきたから、人の行動なんてある程度類型化できるんだ、と。そういう経験も大事だとは思うけん、自分なりの視点があって。でもそれって、相手に「こうあってほしい」っていう思い込みであるだけなんじゃないかなぁ、異性に対していえば、理想があるってことだと思うけど、それってその人をありのままみることが怖いんだと思う。その恐怖心をごまかそうとして、異性に対する自分なりのイメージをつくろうとする。だから仮に相手に会ったとしてもその先入観でしか相手を見なくなる・・・本当の自分とは違うように見られるのは相手にとって苦痛でしかない・・・結局それは自分の判断に自信のない人が頼る武器みたいなものだと思うなぁ。「私」という存在は他との触れ合いによって徐々に形作られるものだから、身構える必要ないんじゃないかな・・・「私のような人間など、他にいくらでもいる」育った環境自体はそうかもしれないけど、やっさんはやっさんだよ、この世に一人しかいないじゃん。それだけで、やっさんはこの世でかけがえのない存在だよ。って言ってる私もかつてカレから、「先入観もってんのはどっちだよ」とか言われたけどさ^^;全てを知ることで果たして人は自由になるだろうか。一度何もガードせず、「自我」を捨ててみるのも「空」の状態になってみるのもいいかも。私仏教だからこんなことばっか言ってます;あんま気にしないで~

    返信
  3. Unknown
    2006年1月10日

    「意味」なんてなくても、あなたは私にとって、かけがえのないたった一人の存在です。それをうまく伝えられなかったことが悔やまれます。

    返信

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です