「知識」について

物事を考える上で、知識は絶対に必要なものだ。
 
 
 
ある大学の文化祭で私が代表を務めていたイスラエル・パレスチナの団体についての展示を行ったことがあった。メンバーの知り合いがたまたま文化祭に来ていたらしく、団体の展示に立ち寄ってくれた。彼らの会話が聞こえた。
 
「イスラエル・パレスチナの紛争って全部イギリスが悪いんでしょ。三枚舌外交だもんね。」
 
「そんな単純なものではない」と、思わず口を挟んだ。
そんなことだけで、イスラエル・パレスチナに生きる私の友人たちが、悩み生きているわけがない。
 
少し話してみると、歴史教科書を作る会の思想に共鳴しているという話だった。今までの「自虐史観」から脱するべきだと、彼は考えているらしい。その思想の素晴らしさについて、熱く語られた。
そこで、藤岡信勝の話をふってみた。個人的に共感できない部分があったので、その部分についてどのように考えるか聞いてみた。すると、
 
「誰それ?」との答えが返って来た。
 
 
 
先日、ある知人が、カンボジアで少女買春をしたことを「ボランティア」だとブログに晒していた。少女たちが最も必要としているお金を与えているのだから、それは立派な「ボランティア」だといえるのだと。
それに対して、共感するコメントが彼の友人から寄せられていた。
 
ちなみに多くのお金は、クメール人の政府高官や警察、一部のブローカー達に廻る。また、彼女たちのほとんどは元ストリートチルドレン、又はベトナムやカンボジアの農村部から売られてきた子たちであり、その多くの場合が騙されて連れてこられている。
 
つまりカンボジアにおいて、少女買春は「ボランティア」どころか少女たちが自己決定権を得るチャンスを阻害することに繋がるわけだ。
 
ちなみに教師志望の彼のブログの最後には、自分のしてきた「国際的経験」は他の教師には伝えられないだろうと締めくくられていた。
 
 
 
醜いなと思った。
世界は多様で美しい。それを単純に語りたがる人間には、辟易する。

5 Comments

  1. hiroshi
    2006年2月24日

    お久しぶりです。
    実はRSSリーダーに入れてちょくちょく興味深く拝読しています。
    とりわけ最近の文章はかなり共感し、勉強させて頂いております。
     
    「大衆は議論よりもゴシップを好み、
    奥にある恐怖を見ようともせず見せかけで判断して動く」と
    何かで見た言葉ですが、それはまあそうなのかもしれないし、
    そうであるから、ここ十数年でゴー宣が
    少なくとも定量的にみればもっともインパクトをあたえられたし、
    でも、じゃあそこからどうすればいいのかと考えていると、
    いかんともし難いところで無力感におそわれます。
     
    藤岡はもちろん、西尾も西部を知らないつくる会に共感する自分と同じぐらいの年の人たちが
    嫌韓論の勇ましい「論理」で下駄を履いて自尊心を満たす
    「単純さ」はわかりやすいし、
    そう言った話し以前に「大衆は」なんていうヒエラルキーの区別などもはやなく、
    毎日資格試験予備校に通っている官僚志望の知人の特殊ではない何人かが
    「カンサンジュン」が人の名前であることに気づかないことに気づき正直びびったわけですが、
    別にその辟易エピソードによって、
    こちらが上から目線で彼らを見ることができる自信を自分に与えてくれることはなく、
    彼らはそれで普通に官僚になったりふるい落とされてもそこそこの企業いったりできるわけで
    それはそれで単純だから問題なしなところでもあって。
    しかし、それでも多様で美しい様を見ていきたいと、共感します。
     
     
    来年度日本にいらっしゃらないんですね。
    またより一層経験値あがった文章楽しみにしております。

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  2. Shunsuke
    2006年2月24日

    >>「誰それ?」との答えが返って来た。まあそんなものですよね。。。 アメリカの留学生には小林よしのりファンが多い傾向にあるんですよね。海外生活を通してアイデンティティーが不安になり、不安を解消するためにナショナリズムに走り、「日本の誇りを取り戻せ!」のようなスローガンを掲げている人たちが私の周りでもけっこういたりします。それにしても、「単純さ・分かりやすさは」は大衆に訴えかける力が強力なので、絶大な影響力を持つところがタチが悪いですよね。社会科学者の著書と、小林の漫画を比べると、やはり「単純に・分かりやすく」書かれた小林の漫画のほうが影響力ははるかに大きいわけですし。 この圧倒的な影響力の差はどうにかならないものですかね。

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  3. Nassy
    2006年2月24日

    >世界は多様で美しい。それを単純に語りたがる人間には、辟易する。
     
    同意しますね。美しく見えるかどうかは人によるとは思うけど、私は美しいと思う。
     
    ただひとつ思うのは、
    単純に語りたがる人(もちろん私にだってその一面はあるけど)に足りないのは「知識」だけではないのでしょう。
    むしろ知識偏重でさえある気がする。
    いくら知識があっても、それを結びつける想像力がなければ物事を理解できる範囲は狭まるでしょう。
    この想像力ってやつも手強いんだけどね。働かせ方によってはただの妄想になるから。
    たとえ「知識」がなくても、単純に切って捨てるような態度さえ慎めば、見えてくる範囲は広がると思う。
    知識もあるに越したことはない。だが知識には限界がある。
    そして得た知識はその瞬間から過去のものとなる。情勢は常に変化する。
    知識だけで物事を理解しようとすると、きっと大切なことを見失うんじゃないかな。
    そこは気をつけないといけないよね。
     
    何はともあれ、世界は多様で多元なものなんだね。私もそろそろ井戸の中から出ないとな。

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  4. shuhei_desu
    2006年2月25日

    >世界は多様で美しい。それを単純に語りたがる人間には、辟易する。

    I agree the latter half.

    返信
  5. yusuke
    2006年2月26日

    >開沼さん
    お久しぶりです。
    ゴー宣に変わるインパクトを創るためには、あちらの「わかりやすい言葉」に対抗して、こちらも「分かりやすく響く」理論武装をしなければなりませんね。その点、宮台はよく頑張ったなぁと思います。これからは東や北田あたりが、その代わりを果たしていくのでしょうか。これからのアカデミズムではその辺どうなんですかね?
    カンサンジュンを知らない、つまり政治思想関係の本を全く読まない方々が官僚、もしくは一流企業に就職していく。非常に悲しいですね。しかしカンサンジュンにしろ、大衆に分かりやすく訴える言葉を持っていないのかなと。多様な世界を、分かりやすい言葉で伝えることが、これから必要とされてくるのではないでしょうか。
     
    そのなかで私にできることが何のなのかを、考えているところです。
     
    近いうちに、飯でも食いにいきませんか?もしお時間があればご連絡ください。
     
    >しゅん
    小林に対抗するような、複雑で難しい世界を精緻な理論に基づいて、分かりやすく伝える人間がこれから求められているのではないかと考えています。その中で私に何ができるのか、考えているところです。
    そのためには、まず外から日本を見てみよう、考えてみようというのが、海外に行く大きな理由だったりします。
     
    >なっしー
    知識だけじゃもちろんだめだね。パレスチナ問題とか本で読んだことだけで、知ったかぶりして色々議論してくる人がいるけど、悲しくなる。
    私が思うに世界を感じ、自分の頭で真摯に考えることから、「知識」の必要性に気付くのではないでしょうか。世界に対し想像力を働かせるほど分からないことだらけですから。
     
    >しゅうへい
    ありがとう笑
     
     
     
     

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