卒業論文にも書いたが、主体と構造のせめぎ合いの中で世界は創られていると僕は考えている。
ある主体の行為の原因の一部は構造にあり、構造の原因の一部は主体の行為にあり、そしてそのせめぎ合いと偶発性(バングラデシュの娼婦たちの場合は、結婚、妊娠によるself-esteemの回復)が私たちの周りの社会を創っているのではないか。
ギデンズの言葉を借りれば、「私たち一人一人の人間はその行為を通じて社会的世界を創るのと同時に、その社会によっても私たち自身が作り直されていく」ということだ。
仮にそのようにして世界が成り立っているとすれば、行為のどこまでを主体に帰することができるのだろうか。
中途半端に不良ぶっていた高校生の頃、僕はある暴走族からのカンパから逃げ回っていた時期がある。
中学時代の友人とその暴走族が問題を起こしたことから、僕まで目をつけられるという事態となり、家を囲まれたり江ノ島で一対四でボコボコにされたりと、(今は懐かしい思い出だが)当時はなかなか大変だった。
けれども、ある時ちょっとしたことがきっかけで、その中のリーダー格の男が複雑な家庭環境の中を生き抜いてきたことを知った。
彼は中学校の頃に両親が出て行ったため、中卒で建築現場を転々としながら、一人の妹を養っているということだった。
当時の僕もその複雑な家庭環境から家に帰らない日が続くようになっていて、だからそのことを聞いたときはほろ苦い気持ちになった。
自分も彼も、同じじゃないかと。
4月に死刑判決が出たある裁判の被告人は、幼い頃から父親の暴力に苦しみ、中学一年の時には暴力に耐えかねた母親の自殺を発見してしまったという。そのため犯行当時18歳と30日だった少年は、精神的発達が12歳で止まっており、感情に至っては4、5歳レベルだと鑑定された。(丸激無料放送分の後半部よりhttp://www.videonews.com/)
けれども、「死刑」を臨む世論に後押しされて、その事実がメディアで大きく報じられることはない。
たとえ報じられたとしても、「厳しい過去を背負っている人でも立派に生きている人だっているじゃないか」と紋切り型の反論が、きっと返ってくるのだろう。
そう考えると、悲しい気持ちになる。