途上国、経済発展、ビジネス、日本

「途上国の発展にビジネスを通じて貢献したい」というせりふを、就職活動中あちらこちらで聞いていて、いつも何かが引っかかっていた。
それは、①経済発展=人間の幸福、②途上国の発展=日本経済の後退、という関係性への論証が足りていないからだと思う。
 
 
1点目に関して言えば、開発学の歴史の中で示されてきたように、人間の幸福は単に経済発展では測ることができない。経済開発が重視されていたのは、もう数十年前のことだ。もし経済の発展度で人間の幸福を測ることができるなら、日本人はバングラデシュ人の数十倍も幸福なことになってしまう。(一人当たりGDP比)
この辺りは、アマルティア・センの議論が参考になる。
 
2点目は意外にも認知されていないことであるが、日本の格差社会は途上国の発展と表裏一体だということだ。
日本のメーカーが中国・インドに生産拠点を移せば、日本の単純労働者は今までほど必要はなくなる。また、当然中国・インドと日本の下請け工場との価格競争が起きる。その結果、日本の単純労働者が「貧困」に追い込まれるのは当然の話だ。
 
 
そんなことをうだうだ考えながら、今僕は世界との関わり方を模索している。

5 Comments

  1. Shunsuke
    2008年7月10日

    ①経済発展=人間の幸福経済で測れないのなら、何を基準すればいいと思う?②途上国の発展=日本経済の後退これは違うんじゃない? 経済って基本的にzero-sumゲームではないでしょ。ある分野の仕事が発展国から途上国に流出した場合、確かに短期的に見ればその分野の労働者は職を失うことになる。だけど、中長期的に見ればその失業者達は社会において新しく必要とされる分野に流入して職を得ることになるんじゃない?  このような流動性があるからこそ、経済はうまく回っていくんじゃない?

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  2. yusuke
    2008年7月10日

    >shun
    1に関しては、ベンサム、ロールズやセンの著作などを読んでくれれば参考になると思う。
    センに全面的に同意をするわけではないけれども。
     
    人の幸福は、もっと複雑なものだと思うし、単一の価値観で測ることはできないはずということが言いたかった。教育や福祉かもしれないし、尊厳や社会的承認かもしれない。セン的に言えば、「自分にとってよりよい選択を選び、実現していく力」となるのかもしれない。
     
    だとしたら、バングラデシュで「富裕層」といえる若い娼婦たちは幸福であることになってしまう。また、経済的にはそこまで貧しくはないパレスチナ人も。少なくとも彼らが求めていたことは、人間としての尊厳だった。(もちろん、それは「経済」の枠組みの中で一定程度実現可能だと思うけどね)
    過去の開発に携わった人たちも、そうやって「経済開発」から「社会開発」へ関心がシフトしたのでしょう。それが正しいかは別として。
     
    どうも、僕は途上国の友人たちが自分たちより不幸だとは思えないんだよね。
    僕にとっては、自分自身の答えがまだ出ていないので、あと9ヶ月途上国で暮らし、言語を覚え、彼らの視点で世界を見ながら、ゆっくり考えたいと思っている。
    これは、僕にとってゆっくり考えていきたい問題。
     
    2に関しては、その「中長期的」をどのような形で作っていくかが必要だと思う。
    でも現在のところ、日本の格差社会(日本に限らず欧米も)が、グローバル化に伴う途上国への労働力移動が主要な原因であることは事実。例えば、インドのIT技術者がアメリカのIT技術者の職を奪ったように。
    そして、それに対する解決策がまだ提示されていはいないし、それが「短期的」な問題かはまだ分からない。
     
    ちなみに「流動性」に関する議論をすれば、その流動性が日本社会にないことも問題かもね。
    年功序列、新卒神話など流動性のない日本社会が、ロストジェネレーションの問題を作ったことは、「丸山真男をひっぱたきたい」の赤城さんの議論を見れば分かるとおり。
     
    しかしながら、グローバル化はとめられないし、とめる必要もないと僕は思う。
    だとしたら、途上国の労働者も先進国の労働者も、共に幸福を享受できるような仕組みってなんだろうなぁと最近ずっと考えている。これは商社で働く中でゆっくり考えられるかなと思っている。
     
    言いたかったことは、そういう「中長期の仕組み」を僕らがどういう風に作っていくかってことが大事だよねってことだよ。

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  3. yusuke
    2008年7月10日

    追加
     
    二点目に関してなんだけど、shunが言っていることは、近代経済学の基本的なことだと思う。
    政府の規制緩和などに見られるネオリベ的な発想だね。それは僕も嫌いじゃない。
    ただ、ネオリベも「市場の失敗」を否定することはないわけで、グローバリゼーションとそれに伴うオフショア的労働力移動いう新たな事態に対して、特に商社で働く以上どのような対処をするべきかは考えなくてはいかないなぁと思う。
     
    少し話しはずれるのだけれども、例えば日本国内の派遣労働の「貧困」問題に大して、経済諮問会議のメンバーでICU教授の八代氏は「正規労働者の賃金を非正規に合わせていくべき」と発言して労組とか既存左翼から叩かれた。(参考:http://otsu.cocolog-nifty.com/tameiki/2007/02/post_f5c8.html)
    彼はネオリベだけれども、その思考法に基づいた上で派遣労働の地位改善を考えるためには一定程度有効である気がする。
     
    途上国の工業化と先進国の労働者の貧困は密接に関わっているのは当たり前で、これまで僕らの生活は途上国の貧困の上に成り立っていたのだから。(ユニクロなんかは典型だよね)
    だけれども、途上国がここまで発展してくると、日本の労働者が貧困になる以外に、新たな世界の経済をまわす仕組みはない気がしていて、それらについてゆっくり考えたいのも、商社に行こうと思っている理由でもある。

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  4. Shunsuke
    2008年7月10日

    「幸福は単一のものさしでは測れない」というのは非常に賛成なんだが、ある種の怖さも感じるんだよね。その主張って貧困等の問題に対して何もしないことの言い訳として使われかねないと思うんだよね。「経済支援?人の幸福は経済では測れませんよ。」と言っているアメリカの政治家や役人を想像してみると、それこそdisasterだよね。じゃあ彼らが経済ではない、もっと人としての尊厳の向上に貢献できるような政策を行うかというと、それって定量的に測れないものだから、そのような政策の実践度・実現度について把握するのは難しいよね。もしくは、上手いこと騙されるかもしれないよね。(もちろん経済発展の進行度等についても騙すことは可能だけれど、経済は基本的に計量可能で数字に落としこめるものだから恣意性は低い)上記のような事態が十二分にありえるからこそ、確かに「幸福は単一のものさしでは測れない」ということは真実だとは思うけれど、それを理解しつつもあえてマキャベリスティックに行動(経済的発展を主たる目的とする)することでロールズの言うところの「正義」やセンの言う社会的厚生の高い社会を目指す必要があるのではないかと思うんだよね。でもそんな行動にも疑問を感じないわけではない。「あえて」なんて言ってるけど、やってること自体はナイーブな経済発展賛美論者と変わらないわけで。それってどうなんだろうと思うよね。というわけで、結局What should we do?って話に戻るんだよね。というわけで、今週末会うときにでもこの件について話そうか。

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  5. yusuke
    2008年7月12日

    >shun
     
    その通りだね!
    俺がもやもやしていた点を見事に説明してくれました。
    俺が悩んでいたのは、そこなんだよ!!
     
    定量的に測りやすい経済と、定量的には測りづらい「尊厳」など他の要素。
    それに伴う危うさと難しさ。
    答えがなかなか見つからないけれども、久々に飯を食えるのを楽しみにしているよ!

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