ドキュメンタリーに関して、最近考えていたことをいくつか。
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先日某マスコミの面接を受けた。
いつのまにか、後一回で内定である。
外資コンサルへの返事は延ばすに延ばして今日金曜日にしてもらったけれども、それでもまだ決めかねている自分の優柔不断さが情けない。
今の僕には人生をかけてもいいほどの「やりたいこと」がなくて、だから全てを複雑に考えすぎてしまうのかもしれない。
ぬるい日々が続き、明日が見えない。そんな時間が二年も続いている。
強度だけで生きるのは、なかなかつらい。
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「複雑な世界を複雑なまま表現したい」
「何回か会っただけで相手のことが分かったかのような作品は作りたくない」
諦めるために面接に行ったのに、意外に僕の意見を認めてくれた気がする。
大事件(例えばサイクロンとか)が起きた時だけ取材して「後は知らん振り」じゃ僕は納得いかないし、言語も話せないのに通訳を介して相手のことを「わかった」かのように伝えるのは、やはり少しおこがましさを感じる。(言語は思考をつかさどるという構造主義のテーゼに、僕は賛成なのかもしれない)
僕は、バングラデシュの娼婦やリキシャ引きたちに世界はどう写っているのか、ただ知りたい。
数年というスパンで対象と関係を築いて、できる限り対象が用いる言語を覚えて、そこから見えた世界を表現したい。
そのために、N○Kでドキュメンタリーを制作するというのは、 悪くない選択肢なのかもしれない。
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最近自分に対する悩みが大きすぎて社会への関心を失っていたのだけれども、久々に「論座」とか「創」とかを読んでみたら、宮台が映画「靖国」を批評しているのを発見した。
「・・・刈谷さんや台湾原住民の描き方も単調です。まるで「刀鍛冶としての人生が全て」「靖国に反対する人生が全て」みたいな描かれ方。
実際には人生は万華鏡です。靖国も万華鏡です。それを取り込めないなら駄作です。先日も僕は靖国神社で夜桜能を観て心から堪能しました。靖国にもいろんな季節があり、いろんな日があり、いろんな顔がある。その中の一コマとして「ああいう人もいる」と描けないなら退屈です。」(創6月号より)
世界は多様なのだから、複雑なものを複雑なまま表現することが真摯なあり方なのだと思う。
けれども、表現の仕方が難しい。
例えば、最近流行りの「ライフヒストリーを語らせる」手法は、複雑な世界を「客観で中立的」に語ることへのアンチテーゼとして有効なのだと思う。でも、昨年山形で見てきた「鳳鳴」(去年の山形ドキュメンタリー映画祭グランプリ)のような作品を見る限り、多くの視聴者をひきつけるような作品作りはなかなか難しそうだ。(とはいえ今後のドキュメンタリー制作で、是非使ってみたいと思っている。)