7年間を支えてくれた人たち

少し早いけれども、弊社キズキのOBOGに 誕生日を祝ってもらった。

2010年、会社を休職し鬱病の中にいた僕は、2011年に自分の人生をやり直すために起業し、そこから2年間、必死に働いた。
祝ってくれたOBOGの一部は、その当時大学に通いながら、インターン・アルバイトとして支えてくれた子たちだ。

2013年は一時的に疲れから怠けたけれども、2014年から2年間は日本の事業を拡大させながらも、海外進出にチャレンジした。たくさんの学びはあったけれども、国内事業とリソースが分散してしまい、海外事業が大きく伸びることはなかった。
これをただの挫折に終わらせないように、再びチャレンジしなくてはいけないと思っている。けれども挫折だったことは、認めざるを得ない。

2016年からは再び日本の事業に注力し、採用制度の改革や経営人材の獲得、権限移譲を進め、塾事業を中心に億単位の事業に持っていくことができた。この2年は自分の経営者としての新たな戦い方を学べた年だった。アルバイトの方々を含めると社員数は100名を超えた。

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「何度でもやり直せる社会を創る」という僕が達成したいビジョンのために創った会社だった。この会社の存在意義は、「僕のやりたいこと」だった。

家族なし、発達障害、不登校、うつ病、引きこもり・・・
あらゆることを経験した僕にとって、このビジョンを達成することが自分の生きている意味だった。
また、パレスチナ・バングラデシュの人たちとの出会いで救われた僕にとって、「日本・海外問わず」そのミッションを達成していくことも大事なことだった。

この7年間、掲げたビジョンに共感してくれたたくさんの人がいた。
けれども、僕が優れた経営者だったことは一度もなかったように思う。怒鳴り散らしてばかりだった。掲げているビジョンに到達する姿が見えない・・・そんな苛立ちが毎日あった。
当然のように多くの人が離れていったけれども、それでも残ってくれた人たちがいた。

感謝、という言葉を安易に使うことは好きではない。
けれども自分勝手な僕のビジョンに付き合ってくれた人たちがいること、「来月会社が持つかわからない」「人がどんどん辞めていく」そんな苦しみを味わった後でも僕の誕生日を祝ってくれる人たちがいるということ。
感謝、という言葉以外見つからない。

12歳で家を出た時から、僕は「誰からも必要とされていない人間」だとずっと思っていた。30代半ばに差し掛かる今も、その時の記憶がいつもこびりついている。
けれども、僕はこの会社を作り、この会社のスタッフたちによって、自分の生きている意味を感じられた。
この7年はそんな時代だった。

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最後に、一人の元スタッフの話をしたいと思う。
彼は、引きこもっていた頃に弊社のインターンに応募し、インターンではあるけれども優秀なウェブマーケターとして活躍した。
けれども内定を出して入社直前という時に、彼は、最後の最後で別の会社に行くことにした。
幼かった僕は怒り、「二度とキズキに顔を出すな」と言った。

そんな彼が、昨日は誕生日会に来ていた。

誕生会の後で家に帰り、彼からの誕生日プレゼントを開けた。手紙も入っていた。
「あのような形でキズキを離れることになってゴメンなさい。何度も謝りに行こうと思ったのですが、ずっと何も言えませんでした。」
「学生時代、引きこもりになっていた僕に居場所と目標をくれたのは安田さんでした。僕のせいで疎遠になってしまいましたが、今も安田さんに対する憧れの気持ちは変わりません。本当にありがとうございました。今後もキズキのことを応援しています。お誕生日おめでとうございます。」

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僕は自分の目標やビジョンを達成するために、7年間必死だった。
けれどもその裏で、たくさんの人たちが支えてくれていたこと、キズキという会社に夢を託してくれていたこと、必死で働いてくれていたこと、そのことを意識したことがなかった。全く気づいていなかった。

これからも、この会社は僕が達成したかった「何度でもやり直せる社会を創る」というビジョンを達成するために存在し続ける。
けれどもその裏には、多くの人の希望や期待、そして悲しみや苦しみがある。そのことは、絶対に忘れてはいけないと思った。

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