閉塞感について 1

「世界が全て終わってしまえばよいのに」
 
20歳になる頃までは、よく思っていた。
だから秋葉原の事件が起こったときも、あまり不思議には感じなかった。
(同世代の人間たちが、皆一様に「気持ちが分かるよね」と語っていたことには、正直驚いたが)
ちなみに加藤氏は僕の一歳年上である。
  
高校時代、僕がその夢想を「実行」に移そうとは全く思うことがなかったのは、「まだ人生はやりなおせる」と思っていたからだと思う。
現に僕は大学に進学することで、人生をやり直すことができた。
けれども一方で、「やり直そう」と決意したのが5年遅かったら、社会がそれを許さなかったはずだ。
 
25歳、人生が本当に別れていくのを実感する時期だ。
フリーターは自分の人生に行き詰まりを覚え、大卒者は就職先を通じて給料や名声を通じて、社会のヒエラルキーの中に組み込まれていく。
一度社会の底辺にいたからこそ、そして今は一流大学を卒業して一流企業に就職しようとしているからこそ分かる。
 
 
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あの事件を見て思い出したのは、中高年の飛び込み自殺だ。
久しぶりに実家に帰ったときに聞いた話であるが、母の周りでは電車の飛び込み自殺の話をよく聞くそうだ。
皆、50代前半、出世や昇進の希望も失った男性たちだという。
(これをどこまで普遍的に考えることができるかは、もっと調べる必要があるけれど)
 
中高年の自殺と秋葉原の事件をつなげて考えたのは、その両方とも本質的には同じなのではないかと思ったからだ。
絶望が外に向かうか、内に向かうか、といった違いなのだと思う。
いい会社に入れなかった、出世ができなかった、学歴や所属、出世という看板はまだ消えない。
高度経済成長期が終わっても、まだ多くの人は見えやすい一つの価値観にすがって生きている。
 
だからこそ、「自分は自分である」という自己信頼が鍵になると僕は思う。
それは、ちょうどあるバングラデシュの娼婦が「私の存在は罪ではない」と強く語ったように。
他者と自分を比較しながら、「看板」に頼って生きる人間に、不透明な時代を生き抜く力は無い。 
 
 
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加藤氏の受けた教育は、僕の受けた教育と非常に似たものだった。
幼い頃から、いい中学・高校に入学し、いい大学に入ることが人生の幸せだと教えられて育ってきた。
 
僕の場合は小学校を卒業してから、親元を離れたくて寮に入っていたし、それからは精神的に全く親に依存してはいない。(今はだいぶいい関係を築けるようになったが)
そして、中学、高校とグレたりしながら試行錯誤をして、ようやく自分の人生を自分で掴み取れるようになったのは、高校を卒業した頃だった。時間がかかった。
 
彼の場合、「自分の人生を自分で掴み取る」タイミングが遅すぎたのだと思う。(非常に恣意的な認識であることは分かっているが)
高校生になって気づいても遅い場合が多い。
なぜなら、試行錯誤を経て20過ぎて自分の道に気づき始めたとしても、社会がやり直しを認めないからだ。
 
「新卒」「学歴」といった価値観に縛られているこの社会において、試行錯誤は早い方がよい。
高度経済成長を経て、その構造は固定化され、既得権益となってしまった。
グローバル化がこの「日本的」構造を破壊するまでには、まだ時間がかかる。
 
(ちなみに、ロストジェネレーションの苦難の原因もここにある。既存左翼は全てを小泉改革のせいにするが、多くの労組が正社員の守ろうとしていることから分かるように、既存左翼も既得権益の受益者だ。)
 
そして、その構造を乗り越えるには、相当の強さが求められる。
枠から一度はみ出た人間に必要とされるのは、人の何倍もの自己信頼(=self-esteem)だ。
 
 
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イスラエルでは高校を卒業して兵役を経ると、世界を放浪したりアルバイトをしたりしながら自分の人生を考え、25歳ぐらいで大学に入学する人間も決して少なくない。
 
僕にはこれが、ものすごく羨ましかった。

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