僕は最近の「社会起業家」ブームに、なんとなく気持ち悪さを感じるようになった。
それは1つに、ある行為を「社会的だ」と信じる感受性の鈍さ、みたいなものによると思う。
前回グラミンバンクに関するブログでも書いたが、ある行為の正しさとはそんなに簡単には分からないと僕は考えている。
自衛隊派遣でも、靖国参拝でも、どちらが日本にとって正しいことなのかは判断の分かれるところだし、どれがいい年金制度なのか、どれがいい経済政策なのか、月一回金曜の夜偉い学者さんたちが朝まで議論しても、答えなんて出てはいない。それなのに、どうして「社会起業」という名がつくと、そういった問題の複雑性が覆い隠されてしまうのか、悲しいところだ。
ある行為の正しさの是非は、長い時間が経って始めて分かるはずだ。
否、長い時間が経っても分からないことだって山ほどある。例えば経済学なんて、かつてのマルクス主義から自由主義経済に主流が移ったと思いきや、それも間違っているんじゃないかと言われ始めているのだから。
何が善きことなのか、その判断は真摯に考え抜いた末のものでなければならないはずなのに、皆「良さそう」に見えることに飛びついているのが気持ち悪い。ある意味、姜尚中ブームに似ているかもしれない。
******
その最たるものが、「チェンジメーカー2」という本だ。
様々な「社会企業家」のインタビューを集めヒットした本「チェンジメーカー」の続編なのだが、まずい記述がいくつもあった。
例えば、エム・クルーという会社だ。
「フリーターのための短期滞在施設」の運営会社であり、貧しい若者を救うビジネスとして特集されているのであるが、実は日本の貧困問題に関心のある者の中では、「貧困ビジネス」として問題視されている会社だ。
ネットで調べれば簡単に分かるはずなのだが、著者は基本的な下調べさえしなかったのだろう。
他にも、「ポラリス・プロジェクト」という「買春被害者救済の国際ネットワーク」として紹介されているNGOがある。
僕は日本の風俗業界にちょっと足を突っ込んでいた時期もあるし、現在はバングラデシュの娼婦街で定期的に生活しているわけだけれども、この本に書かれている現状は事実誤認も甚だしい。売買春=悪、女性=被害者という認識に凝り固まっているが、それは一昔前の見方だ。
以下に卒論で使った文章を添付するが、社会学などではこれが一般的な見方になってきている。
******
現代のフェミニストの間では、売春に対して二つの見方がある。一つは市民権に重点をおき性的表現の自由を追求するものであり、もう一つは男性による性的抑圧であるという急進派フェミニストの見解である。後者の急進派フェミニストたちは、自らの意志で肉体を売る女性などいるはずもなく、男性の強要以外にありえないと主張する。つまり売春は隷属的性労働であると規定する[i]。
日本においては90年代に売春に関する議論が盛んになった。当初、角田由紀子や橋爪大三郎など当事者以外によって売春が抑圧か自由意志かという議論が行われていたが、桃河モモコらによるセックスワーカー当事者からの労働権の主張が登場し、「売買春根絶」という政治上・モラル上の当事者抜きの議論が非難されるようになった[ii]。
また欧米では、かつてフェミニストたちが連帯を唱えて掲げた「女性」というカテゴリーが、実は白人中産階級の女性を前提として、女性たち内部において白人を頂点とする権力構造の再生産に寄与するものにすぎなかったと指摘されるようになり、女性という存在の多様性を意識することが重要視されるようになった。また1980年代以降、欧米の一部の女性セックスワーカーたちが、自らを「労働者」と認めるように声をあげるようになったことで、全ての女性たちを家父長制の被害者として認識する見方に、セックスワーカー自身から異議を唱える声が挙がり始めた。彼女たちなりの利害判断に基づいて、限定的な選択肢の中であってもセックスワークを選択する女性がいる以上、その意志は尊重されなければならない[iii]。そして現在では、彼女たちの「自由意志」と呼ぶときには、既存の男性中心主義的な社会構造において女性に与えられる職業選択の空間の有限性を認識しなければならない[iv]が、その前提を共有した上で、彼女たちの自己決定に基づく売春を認める必要があるといった二つの間の中間地帯を構成する議論も増えてきている。売買春が何であるか、どのように認識されるべきかは、コンテクストによって異なってくると言えるだろう
[i] ロナルド・ワイツァー(編)『セックス・フォー・セール』、ポット出版、2004
[ii] 青山薫、『「セックスワーカー」とは誰か』、大月書店、2007
[iii] 市野沢潤平、『ゴーゴーバーの経営人類学』、めこん、2003
[iv] 藤目ゆき監修, 林紅著、『中国における買売春根絶政策』、明石書店、2007
*******
「チェンジメーカー2」の著者は、明らかに勉強不足だ。
(エム・クルーや、ポラリス・プロジェクトの問題性を認識した上で、書いたのならば分かるが・・・)
そんなわけで、僕は最近、NPOでもNGOでも企業でも社会企業でも何でもいいから、格付け機関みたいのを作ればいいんじゃないかと思ったりしている。まぁサブプライムでの失敗で、格付け機関も地に落ちてしまいましたが。
2008年10月28日
「気持ち悪さ」よくわかる。しかしそういう「気持ち悪さ」って自己批判から派生してるのじゃないかとよく思うんだよね。安易な罠にあやうく足をとられそうになりながら、それを通り過ぎると、罠にはまっちゃった人みて、「このひとたちイタイな。」とか思っちゃうんだよね。罠に引っかかりそうになった自分に対する批判。安田君は引っかからないかもだけど、私はすぐ飛びついちゃう方だからね。あとでじっくり考えてなんかへんやって気づく。
2008年10月28日
既存左翼の話とも通じると思うんだけど、故意か過失かは分からないが(俺は往々にして「前者」だろうと穿った見方してしまうけど、性善説に立つなら「後者」か)、みんな物事を単純化しすぎてるよね。
社会起業家たちもその志の原点にある(あった)ものは、世界を「より良くしたい」という気持ちだったのだろうけど、思考が浅かったり、もしくは途中で考えるのを諦めたのかもしれない(多分これが多数派)人たちが多い。
本当はみんなが答えなんて分からなくても、ゆうすけみたいにそこまで考えられればいいと思うんだけどね。
実際、俺も物事によっては途中で思考を放棄したり、単純化して自分を納得させていることが多々ある。
ただ、やっぱりそういった「行動(社会企業だとかボランティアだとか、市民運動だとか)」に身を投じるなら、「少なくともその問題については、一生懸命考え続けるくらいの気概を持てよ」と言ってやりたい。自分にも。「良さそう」なことに飛びついてるから、それを批判的に見る視点が欠けてんのかね。
まぁ、結のないだらだらのコメントしてみました。
2008年10月31日
>りさ
確かにね~、俺自身もこの「社会起業家」ブームに、相当注目してたから。
違和感を感じるまでには時間がかかったよ・・・
>しゅうへい
俺みたいなニートと違って、みんな忙しいからね。
考えている余裕なんてないまま、時間が過ぎていくのかもしれないね。
2008年10月31日
>俺みたいなニートと違って、みんな忙しいからね。
え、自虐的ですな。。。w
>考えている余裕なんてないまま、時間が過ぎていくのかもしれないね。
そう。ここ。そうやって、だんだん会社に過剰適応していくのですよ、、、、50歳くらいでふと気づくと、、って、どっかで読んだ記事ですな。