2週間ほど、友人たちと東欧を旅行していた。
ポーランドのクラクフでアウシュビッツを見た後で、ハンガリーを経由して、セルビアのノビサドという街まで南下した。
そこでサッカー日本代表戦を見た後で、友人たちと分かれ、一人旅となった。
タクシーと電車を乗り継いで16時間、ルーマニア北西の街、クルージュナポカを訪れるためだ。
この街には、22歳の頃に一時期住んでいたことがある。
逃げるようにしてこの街を離れてから七年半も経ったけれども、たいして街は変わっていなくて、その風景は忘れかけていた記憶を蘇らせた。
深夜1時47分に列車がクルージュナポカ駅に到着すると、予約していた駅近くの宿に直行した。
翌日は、あの頃と同じようにsmashing pumpkinsを聞きながら、かつて住んでいた家(現在は賃貸募集の看板が出ていた)から川沿いの道を、当時の職場まで20分ほど歩いた。残念ながら当時の職場はホテルに変わっていて、どこに移転したのかは分からなかった。
仕事の休憩中によく通った大きな公園のベンチに腰を下ろして休んだ後に、街の中心にある教会に行った。日曜日ということもあり、途中の道沿いの商店の多くは空いていなかった。東洋人がすれ違う人々の好奇の目線に晒されるのは、当時と全く同じだった。
そして日が暮れる前に、街を見下ろせる高台に登って、何枚か写真を撮った。
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今日は自分のために、あの頃の気持ちを記録しておこうと思う。
今まで書いたことと重複もあるけれども、改めて色々なことを思い出したので。
(一年半前にも、ほとんど同じことを書いたけれども
http://yasudayusuke1005.wordpress.com/2012/03/03/ganbarenai/)
僕は大学2年生の夏、イスラエルとパレスチナの若者たち12名を日本に招いて、一ヶ月の平和会議を行った。
その会議は成田空港でイスラエル人・パレスチナ人が大泣きして別れるほどに大成功したのだけれども、一方で僕は強くフラストレーションを感じていた。12名を招いたところで、1000万人以上が住む現地の状況が大きく変わるわけではない。
その頃から、本当に社会にとって「意味」のあることをしたい、と強く思うようになっていた。ここでいう「意味」とは、ロールズ的な文脈における正義に近く、圧倒的な困難な状況にある人々たちが幸福に生きられるような、そういった社会を創る事業のことを指している。
でも何をすべきか、一向に見えなかった。
だから、講演に呼ばれたある学会で「ルーマニアの研究機関で働かないか」という話が来た時には、二つ返事で引き受けることになった。
大学二年生が終わる頃だった。海外に出れば、何かが見つかる気がした。
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実際にルーマニアに行ってみると、そこで働くアメリカ人たちと対等に議論できる英語力がなくて、「意味」のあることをやる以前の段階だった(それまでは非ネイティブとばかり議論していた)。
それに、研究所で働く人々は、行ったこともない国の人々についてあたかも分かったかのように議論をしていて、僕は「本当にそれでいいのか」と悩むようになった。
その国の人々が幸せに生きるための事業をするのであれば、泥臭く現地を這いずり回らなければ、的外れなものになってしまうのではないかと思っていた。
ルーマニアまで来ても、自分が何をすべきかは見えないままだった。
何をすべきか分からないから、何に向かって努力すればいいのかも見えなくなっていった。
たとえ何をすべきか分かったとしても、それをマネージメントするだけの英語力・コミュニケーション力にも欠けていた。
結局、7年前の夏、僕は逃げるようにして、この街から去った。
努力してもどうにもならないことがあることを知ったし、努力しようと思っても体が動かないということも初めて体験した。
そして、ルーマニアの挫折の後も、苦しい時間は続いた。
その後のバングラデシュでも「意味」のあることはできなかったし、諦念の中で就職活動をして日本の大企業に入ることができたものの、すぐにドロップアウトした。
転職先も見つからなかったので、飯を食うために起業せざるを得なかった。近所のマンションにビラを撒いて、英語を教えることで食いつないだ。
それでもやっぱり「意味」のあることがしたかった。
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クルージュナポカの街を歩いていると、あの頃のことをたくさん思い出した。そして、何も成長がなかったように思えた7年間の中に、確かな変化があったことように感じた。
(正直なところ、ずっとこの街に来るのが怖かったのだが、ポジティブな感情が自分の中に生まれてホッとした)
ルーマニアでの挫折から7年近く経った29歳の頃に、事業は軌道に乗って、多くの困難な状況にある人々のお手伝いができるようになった。来年、再来年になれば、もっと事業は拡大するだろう。
あの挫折を通じて他者の弱さを理解できるようにならなければ、今の事業はできなかったように思う。
努力すれば叶うことなんて世の中にはほとんどないかもしれないけれども、それでもこの七年間、諦めなくて良かったと思った。そして何より、あの頃と違って自分自身の可能性も信じられるようになった。
やっと7年半前のルーマニア生活を肯定できるようになった。