ここ数年、映画や本を読んでも言語化してアウトプットをする時間が取れなかったので、徐々にこのブログとかブクログに感想を残しておこうと思う。
思い立ったが吉日ということで、昨日観た「風立ちぬ」の感想を書く。
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観客に多様な解釈を与える芸術作品こそが、「優れた」作品だと僕は勝手に思っている。
例えば映画で戦争を描くときには、「分かり易い反戦メッセージ」が出てきた瞬間に、げんなりしてしまう。
だから、最も好きな映画であるクストリッツァの「アンダーグラウンド」然り、困難な時代や社会の中であっても、人間らしく生きる人たちの姿を描いた映画が僕は好きだ。
人も世界も多様であり、それを多様なまま描けないのであれば、映画として駄作である。
「風立ちぬ」が良かったのは、昭和初期の戦争に向かう時代に零戦を作る若者を主人公にしながらも、そこに英雄も悪人も描かなかったことのように思う。
おそらく多くの人は、「戦争に最後まで反対した英雄」「戦争を遂行した悪人」を物語に期待するだろうけれども、それは「現実」ではない。
主人公の二郎の友人である本庄は、戦争に向かう時代を生きながら何もできない自分に悔しさを感じているように見えるが、二郎からはそういった社会問題への強い関心を感じない。ただただ、飛行機を作ることが第一優先で、夢中になっている。
一見残酷に見えるこの姿が、たぶん「普通に人が生きる」ということだと僕は思う。
この世界に英雄も悪人も少なく、一人ひとりが社会の構造に翻弄されながらも、必死に現実を生きているに過ぎないのだ。
そういう人間の残酷(に見える)一面は二郎の恋愛にも現れていて、療養所から飛び出してきた余命少ない菜穂子を放って仕事に没頭する。
映画で男女の恋愛が描かれる時、観客は「純愛」を期待するかもしれないが、実際にはこの主人公みたいな恋愛だってたくさんある。
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あと、もう一点。「風立ちぬ」が僕に刺さったのは、主人公が極めて自分と似ているからかもしれない。
僕自身、自閉傾向が若干あって、自分の関心を全て優先させて生きてきたし、それに対して多少の後悔はしてきた。
僕が今の仕事(NPO)をしているのは、決して僕が「いい人だから」ではなく、「それをやらなければいけないと思っているから」というだけ。
バングラデシュで映画を作っていた頃も、「社会に伝えたい」という思いがあったというよりは、「そこで生まれている物語を作品に残したい」という動機だった。
自分が10代の時に経験してきたことに首尾一貫した物語を与え、そこから生まれる意味を人生に付与したいと僕は常に思っていて、それが会社経営だったり映画製作だったりしたのだと思う。
それで色々な人間関係を犠牲にしてきた。自分がすべきだと信じていることを、何よりも優先してきてしまった。
だから僕は、幼い頃から飛行機に憧れ今は飛行機設計に夢中になり続けている二郎と何ら変わりはなく、そういう意味でラストの二郎の喪失感は苦しかった。