最近、日本でも社会企業という言葉があふれ始めている。
グラミンバンク、BRACなどに関する講演会に行くと、投資銀行や外資コンサルやらで働くいわゆるビジネス「エリート」たちの姿が目に付く。
「普段自分が行っている仕事が社会の役に立かもしれない」、そんな可能性を見出すことによって、必死に自尊心を保とうとしているようにさえ見える。
「開発」だとか「社会企業」だとかの名のもとに、自分たちの価値観を押し付ける。その押し付けがましさ、傲慢ぶりには、辟易とする。
現地語を話せるわけでもなければ、現地に長期間滞在したこともない、それどころか行ったこともない人さえいる・・・そういった人間たちが、自分の方が「彼らより優れている」という前提のもと、たとえば、「この社会は『貧困』に違いない」「この社会の人は『貧困』から抜け出すべきだ」「すべてのセックスワーカーはかわいそうだ」「彼女たちは守られなければいけない」「この社会は『発展』すべきだ」「こうすれば『経済発展』する」・・・と考える。
金と力のある人々は、これまでもそうやって他人の社会を壊してきた。世銀やらIMFやらが過去に行ってきて、そして現在非難されている一連の政策がいい例かもしれない。
(ちなみに、飢餓で苦しむほどの貧困は普通の国には存在しない。バングラデシュの物乞いさえ、意外に飯は食えている。アマルティア・センによれば、すべての飢饉は人為的だ。)
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先々週の週刊現代の福田和也の連載に、カンボジアを中心に活動する某老舗NGO の代表のインタビューが掲載されていた。
この10年カンボジアが遂げてきた目覚しい「経済発展」の裏で、自給自足を保っていた農村が破壊つくされた、という話だ。
農村は投機の対象になり、林などの入会地は国際資本に買い占められ、そこに生きてきた人々は都市に出てスラムで生活しながら、ある者は物乞いとして、ある者は売春を行い生計を立てている、という。
「経済発展」の裏で壊されていく社会がある。必死でお金を稼ぐことが美徳とされている社会とは別の価値観で、動いている社会もある。
よく途上国で働くビジネスパーソンで、「我々は彼らの経済発展に貢献している」と自慢げに話す人がいるが、これは外部の価値観を押し付けているいい例だ。
何をもって「貢献」とするかは、もっと複雑な問題だということを覚えておいたほうがいい。
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イスラエル・パレスチナでも、こういった押し付けがましい人には山ほど会ってきた。
たとえば10年、20年とパレスチナ問題を追いかけ続けて、あたかも自分がパレスチナ人であるかのように「かわいそうな」パレスチナ人の姿を伝えたがるフリーのジャーナリストは結構いる。ところが、彼らのほとんどはヘブライ語もアラビア語もほとんどしゃべれない。覚えようともしない。それでいて、すべてを分かったかのように語り、彼らを表象した気になっている。
「正しい」と外部者が思った行動は、往々にして「おこがましい」ということを覚えておいたほうがいい。
他者のことを分かるというのは、それだけ難しいことなのだと僕は思っている。
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今回のバングラデシュ滞在では、グラミンバンクで働いているドイツ人の友人に会おうと思っていた。
ところが先ほど返信がきて、もう辞めてドイツにか帰るとのことだった。
「あんなものは、貧しい人々を搾取の対象にしているだけだわ」
バングラデシュ国内での見方はだいたいそんなものだが、一方日本の「ビジネスパーソン」たちはグラミンバンクだのBRACだのマイクロクレディットだの聞くと目を輝かせる。
僕がこの五年間イスラエル・パレスチナやバングラデシュで、必死に生きる人々と接しながら学んだことは、「自分たちの尺度で異なる文化を見るな」ということだった。
現地の言葉をできるだけ覚えて、土地の声を聞け、ということだった。自分の「頭」の中だけで「正しい」ことができるなんていうのは、単なる自惚れであるし、余りにおこがましい。だから今の僕は、彼らに対して何も語る言葉を持ってはいない。
「人文科学におけるいかなる知識の生産であれ、その著者が人間的主体として周囲の環境に巻き込まれていることをおよそ無視したり否定できないということが事実だとすれば、オリエントを研究対象とするヨーロッパ人ないしアメリカ人が、彼らにとっての現実の主要な環境条件を否定できないということもまた事実であるに違いない…」
(E.W.Said 「オリエンタリズム」 平凡社)
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P.S
ちなみに、まだプノンペンにいる。
ガールズバーで働く女の子たちとめちゃくちゃ仲良くなり、毎晩クラブで遊びまわっていた。
気づけばカンボジアに来てから、一週間も経っている・・・
(ちなみに、ガールズバーといってもなんとロンプラにのっているぐらいなので、そんなに怪しくない)
踊りは苦手なのでクラブは好きじゃないんだが、今まで知っていたカンボジアとは別の面が見えてきて、それなりに楽しい。
これについては、次回のブログで・・・
明後日から三日間、バングラデシュです。
2009年3月21日
so, what will you do?
2009年3月21日
ごめん、まだ書いている途中。早いよチェックが笑今文章を書き足したけど、俺は何も語る言葉を持たないよ。その資格もないと思う。今はもっともっと見て知って考えて、その後で何かをします。イスラエル・パレスチナの人たちからも、バングラデシュの人たちからも、たくさんのことを学んだから、ちゃんと恩返しはしたいと思っている。今までたくさんのことをしてきたけれど、次の数年は勉強の時期かもしれない。会社の仕事をちゃんとやって、言語をちゃんと勉強して・・・でも映画を完成させて、バングラデシュの「底辺」でもがく人々の声を伝えて、イスラエル・パレスチナでもう一度会議をやって自分たちに何ができるか考えて、ってこともやるよ。ちなみに、迫君のブログがなぜかプノンペンのネットカフェからアクセス不可能だった・・・なぜだ?
2009年3月22日
>その著者が人間的主体として周囲の環境に巻き込まれていることをおよそ無視したり否定できないということが事実だとすれば、オリエントを研究対象とするヨーロッパ人ないしアメリカ人が、彼らにとっての現実の主要な環境条件を否定できないということもまた事実であるに違いない…私は、あえて、「アラブ民族」を見下すシリア民族の立場から、この愛すべき東地中海を語ることにしました。それを、「オリエンタリズム」と批判する同胞ムスリムが多いのは事実ですし、あえて、オリエンタリズム的な視点を活用しています。それくらい、「アラブ民族」から距離を置かないと、このシリアですら、私は居場所になりませんから。さっさとトルコ国籍取得すべきなんだって、改めて思う毎日です。シリアで、シリア民族について語ると、大きく賛同してくれる人たちもたくさんいる一方、やっぱり、「アラブ民族」を語り、それを断固として否定する同胞や、スンニ派イスラム教の教義上の正しさを語りだす人も、もっともっといる現状を見ると、やっぱり、このシリア共和国ですら、どこにも迎えないさまよえる民の土地なんだって確信を深めます。