日本・イスラエル・パレスチナ学生会議を引退して

日本・イスラエル・パレスチナ学生会議という団体を引退した。
イスラエルとパレスチナ、対立しあう両者に対話の機会を創出すること、そしてイスラエル・パレスチナの1人姿を日本社会に発信すること、その二点を元に活動してきた。
 
イスラエル人・パレスチナ人は対立しているにもかかわらず、市民レベルではほとんど会うことができない。また日本人の多くは、イスラエル・パレスチナの紛争を「遠い」紛争と捉えがちである。
そのような状況に対し、学生なりにアプローチできたらと思った。
 
私の大学生活二年間はこの団体に捧げられた。
特に大学一年の冬からは団体の代表として活動していたため、大学にもほとんどいけなかった。
 
団体のメインとなっているイベントは日本にイスラエル人とパレスチナ人を招き、一ヶ月弱にわたる会議を開催すること。
今年の八月、新潟県長岡市、長野県長野市、東京都の三都市で、日本人・イスラエル人・パレスチナ人が三週間半にわたり共同生活を行った。
ディスカッションなどを通し相互理解を深めると共に、市民交流会やNHK、各新聞などマスコミへの露出を通して社会への発信を狙った。また、地域のコミュニティーとの協働、具体的には長岡の高校生とイベントを一緒に作ったりと、地域に基盤を置いた活動を意識した。
 
 
昨年の冬に私が団体の代表となった時、メンバーはわずか3人。そこからのスタートだった。
共に活動するメンバーを集め、様々な団体の共催や後援、助成を取り付けた。
 
様々な協力を頂いただけの成果があげられたのかは、分からない。でも様々な方々の協力を得てお金を集め、実際に責任者として動くそのプロセスは、確実に私を成長させてくれた。
 
 
この一年間は自分と社会との関係を明確に意識しながら、それへとアプローチし続けた時間だった。
自分という個人がイスラエル・パレスチナの社会に対してアプローチし、長岡、長野、東京という地域にアプローチし、メンバーとなってくれた日本人大学生に対しアプローチし続けた。
 
そのプロセスの中で多くの方にご迷惑をかけてしまったのは事実である。
しかし、そこから多くのものが生まれた。
 
空港で涙を流して別れを惜しんだイスラエル人・パレスチナ人。
報告会の時、「会議のおかげで町が活気づいた。来年も是非三島町で会議を開催してほしい」と言ってくれた三島町の方々。
何より、「会議に参加したことで自分の価値観が変わった」と、ことあるごとに言う一年生たち。
 
 
個人が動けば、社会は少しだけよくなるのかもしれない。少しだけ変わるのかもしれない。
 
団体は引退するけれども、これからも小さな自分なりに、自分が生きている社会や世界にアプローチできたらと思う。
 
そして最後に、自分にこのような素晴らしい二年間をくれた先輩方、後輩たち、サポーターの方々に感謝で一杯だ。
 
 
 
以下報告書用に書いた個人総括を添付する。
 

8月の3週間半というあの時間が、延いてはその準備にあてられた半年以上の時間が、私にとって何だったのかこの機会を通じて考えてみる。

 

 私にとっての「第3回日本・イスラエル・パレスチナ合同学生会議」はイスラエル・パレスチナという紛争に、自分も「間接的」に関わっているという問題意識から始まった。グローバル化の進む中、世界で起こっている紛争が私たちの日常生活と無関係に起こっているわけではない。外交、貿易など様々なものを通して私の生きる日本と繋がっており、あらゆる意味で私たちはこの紛争に「加担」しているといえるのだ。

 

 また中東の不安定な情勢が今後日本に少なからず影響を与える可能性があるということは、今年夏に起こったイギリスの自殺爆撃を見れば明らかであろう。その意味でも日本とパレスチナ問題、中東情勢が無関係だとは言えない。

 

 その中で、私の問題意識の1つの答えになったのがこの会議だ。

 

 イスラエル、パレスチナ合わせて1000万もの人口がいる中で12人の学生を呼んだところで情勢が変化するほど単純な紛争ではない。しかし会議に参加したイスラエル人・パレスチナ人合わせて12名の学生が家に戻り、家族や友人に「自分の目でみたお互いの姿」を伝えたのなら彼らの生きる「社会」が変化するのかもしれない。憎しみの連鎖が「少しだけ」断たれるのかもしれない。私はそう信じた。

 

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 同時に、イスラエル人・パレスチナ人の姿を日本社会に発信し続けることが、私のこの紛争の解決に対しできる最も効果的なパフォーマンスだと考えた。だからこそ今回の会議ではNHK「おはよう日本」への出演やNHKの夜のニュースラジオへの出演、様々な新聞への露出を通して、「社会への発信」を重視した。1人でも多くの方に、イスラエル・パレスチナ問題、延いては世界で起こる紛争、貧困などの問題に対する関心を喚起したい。また、それのみならず特に私達と同じ若い世代の1人でも多くが「主体」として世界の問題に関わる機会を創出したいという思いもあった。そのことはいずれ市民社会の成熟化に繋がり、私の住む社会にできる還元だとも考えた。

JIPSC 2005年度 事業報告書

 そんな思いで開催を決意した「第3回日本・イスラエル・パレスチナ合同学生会議」は新メンバーの勧誘から始まった。第2回合同学生会議が終わり、第3回合同学生会議に参加しようと決めたメンバーは2人だけだったからだ。私の友人に声をかけて、少しずつメンバーを増やした。それとほぼ同時期に半年後の会議に向けて事業計画を練り文書を作成しサポーターを探すために企業や財団を訪ねた。3月には新メンバーであった山本と共に、会議参加者をリクルートし現地サポーターを得るためにイスラエル・パレスチナに飛んだ。

 

 春になると大学に新入生が入学してくる。各大学を周って、新メンバー勧誘のためにビラを撒く。新しくミーティングに来てくれた新入生には、メールや電話をしながらサポートする。徐々に仕事のやり方も教えていく。

 

 この頃からメディアとの接触も始めた。「日本社会への発信」を考えた時に、テレビ、ラジオ、新聞への露出は不可欠だからだ。また春に作った現地での人脈を生かしてイスラエル人・パレスチナ人からアプリケーションフォームを募り、参加者選抜を開始する。

 

 単位や睡眠時間など、どうでも良かった。

 

 パレスチナ人参加者が日本に到着したのは、8月6日のことだった。そしてイスラエル人参加者が成田空港に到着したのは次の日の7日、そのまま長岡にバスで移動し会議が始まった。

 

 その夜は深夜まで議論を行った。紛争のこと、歴史のこと、日常生活のこと、朝日に気付くまで語った。イスラエル人もパレスチナ人もこの日を待ち望んでいたのだ。日常的には話すことのできない彼らがお互いの思い、考えを伝え、そして聞く時を。この時真にこの会議の意義を実感した。今までの全てはこの時間を創るためだったのだ。

 

 時間が流れ、様々な問題とその解決を経て、私たちの絆は深まった。イスラエル人・パレスチナ人との間に修復不可能な溝が生まれたかに見えたときもあった。それでもその度に「対話」を通じて、次なる一歩を踏み出してきた。

 

 この会議を通して私達日本人参加者約25名、延いては交流会等に来て下さった多くの日本の方々にとって、イスラエル・パレスチナで起こっている問題は「遠い」問題ではなくなった。会議後に宿泊先である三島町の方から頂いた手紙が忘れられない。「現地での紛争のニュース報道を聞くたびに、参加者の安否が気になります」と。

JIPSC 2005年度 事業報告書

 更に言えば、会議参加者のイスラエル人6名にとってパレスチナで起こっている問題が、パレスチナ人6名にとってイスラエルで起こっている問題が、「敵民族の悲劇」ではなくなったのだ。帰りの際空港で抱き合って泣きながら別れを惜しんだイスラエル人・パレスチナ人・日本人の姿を見た時、私は確信した。

 

 会議中、私達は幾度となく対立し、その度に3者間での弛みない「対話」を通して問題解決の道筋を探ってきた。そして今、「対立」さえもかけがえのない思い出として胸に焼き付いているのは、私だけではなく全てのメンバーに共通するものである。

 

 この会議のメンバーのほとんどが夏会議直前から活動を始めたこともあり、準備不足で多くのサポーターの方々にご迷惑を掛けた点は否めない。しかしこのような多くの方からのサポートによって、確実に生まれたものがあった。

 

 ここで生まれた3者間の友情が、いずれ何らかの形で実を結ぶことを願ってやまない。

 

第3回日本・イスラエル・パレスチナ合同学生会議

 

共催:独立行政法人国際協力機構(JICA)、武蔵野市、長岡市、長野市、長野国際親善クラブ

後援:外務省、在日イスラエル大使館、駐日パレスチナ常駐総代表部、日本アラブ協会

助成:財団法人吉田茂財団、武蔵野市国際交流協会、公益信託オラクル有志の会ボランティア基金

協賛:公文教育研究会、三国コカ・コーラボトリング株式会社、富士ゼロックス株式会社

*当団体はいかなる政治団体、宗教団体とも無関係です。

連絡先:info@jipsc.org
    http://www.jipsc.org

1 Comment

  1. Nassy
    2005年12月30日

    何はともあれお疲れ!これからキミがどうやって生きていくのかとても楽しみです。

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