「自分」とは何なのか

「自己」というものほどわからない存在はなく、だからこそ社会学の対象となり続けたのであるし、80年代後半からは心理学の大きな対象ともなった。
 
そんなことを考えてる今日この頃(ブログを読めばおわかりのように・・・)であるが、そのテーマが今日の社会学の授業にも出てきた。
 
社会学者のルーマンは、「自分とは何であるか」という問いは近代社会特有の問題だと述べた。前近代社会では身分制度の中で、「自分が何者であるか」などという問いは生まれなかったのだ。
 
社会学者のギデンズは「自分とは何なのか」という問いは、何度も繰り返される答えのない問いだ(再帰性)と述べた。これは「自分とは何なのか」という問いに、答えがないことを示している。
 
そして、その中で出る1つの結論が「考え続けることに意義がある」とする、一種の自己肯定化である。しかし、これは「答え」にはなっていない。言ってしまえば「個人の気の持ちようでしょ」ということになる。
 
 
ここで授業は、私の愛読書の1つである小熊英二の「癒しのナショナリズム」を扱った。このコンテクストの中で、「癒しのナショナリズム」の主張を考えると、一層理解が深まる。
 
要するに「自己肯定」という結論に納得の行かない人は、自分の存在とは関係に自己を規定してくれる存在を探す。それが、ある一部の人にとっては「国家」ということになるわけだ。
 
 
 
翻って、私自身のことに目を移してみる。
 
結局、私も「自分を規定するもの」を探し続けているのかもしれない。
それが高校生の時は女の子にモテること(下品な言い方をすれば経験人数)、浪人中はいい大学に入ることだった。今までは「国際協力の団体の代表」だった。
 
全ては「自分探し」という旅の通過点に過ぎなかったのか。
 
 

3 Comments

  1. Shunsuke
    2005年10月22日

    俺もたぶん「自分を規定するもの」を探し続けるタイプですが、宮台真司などによれば、そのような人は一歩間違うととんでもない方向に行ってしまう傾向があるようですね。 自分のようなタイプが宗教やナショナリズムにはまるんだろうな、と少し怖かったりします。

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  2. Nassy
    2005年10月22日

    おもしろそうな本だね。私は「自分を規定するもの」を作らないようにしてるので(限界あるけど)、逆にいつも不安です。みんな、自分の生きる理由が欲しいのかも知れないね。そんな私はロッテファンです。ただ今試合中で大興奮です。虎には負けんよ。

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  3. yusuke
    2005年10月24日

    >shunさん私は宗教やナショナリズムにまったく興味がない分、恋愛やらに求めてしまうのかもと悩んだりしてます。>ナッシーさすが千葉県民!

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