僕には、一般的に「母」と呼ぶべきであろう人が三人いる。お世辞でも「恵まれている」とは言えない少年時代をすごした帰結である。今日は二番目の母、現在も戸籍上は「母」となっている人物について、ほんの少しだけ書いてみる。 考えてみると、僕は自分の家族について多くを語ることを拒否してきた。まだ自分の中で受け止める土壌ができてなかったからだ。けれども、これから少しずつ受け入れていかねばならないのかもしれない。もうそうしてもいい時期だ。 二番目の母と出会ったのは僕が高校一年生の夏であった。父の再婚相手として知り合った。そしてそれから僕が高校を卒業するまで共に過した。 僕はこの母を嫌っていた。嫌うなんて言葉じ...
...日々の忙しさの中で
最近忙しい。少し感傷的なブログを書いてみる。疲れた。あ、でも皆さん気にしないで下さい。 財団申請やら事業報告やら新歓やら全てが重なった。僕が全て背負っているわけではないけれども、やはり代表として全体を把握しなければという思いが強い。進行中の様々な仕事がスムーズに進んでいるかに常に気を配る。そして目下の悩みは財政難。このままじゃイスラエル人・パレスチナ人の誰も呼べしない。一体そうしたら、すばらしい夏を創り上げることができるのか。そして僕は彼らと何ができるのだろうか。 僕のような能力のない代表にとっては頭が割れそうにな毎日。自分の肩にかかる重圧に押しつぶされそうになる。この団体を創り上げた方々...
...二年生からの誓い①
旅日記をお休みして、今日は近況を書こうと思う。 二年生の授業が始まった。一年の時は大学の授業を真面目に受けたことがなかった。「本を読んだ方が早い」という言葉を口癖にして、まともに学校に行かなかった。しかしながら大学受験の時と異なり、目の前に明確な目標があるわけではない。団体の活動が忙しい以上それに気をとられ、勉強がおろそかになってしまった。そんな一年間であった。 昼前にのんびり起床し家を出る頃には太陽が南中高度を超えている、そんな怠惰な生活を送っていたのだった。 とりあえず、昨年度とった授業について評価してみようと思う。 経済と経済学(一学期) 前半と後半(マクロとミクロ)で先生が異なる。悪く...
...アラブ人にだまされる
一緒に神殿の丘を見学したテネシーから来たアメリカ人たちというのが、なかなか曲者でだった。音楽団として活動しているらしいのだが、彼らは皆イスラエルが6回目とか7回目。しかも南部出身。それを聞いただけで「キリスト教原理主義」じゃないかと予想。そして結果は期待に違わず。少し仲良くなると、キリスト教に勧誘される。アブラハムとかの歴史とかを色々説明された後に"that’s why・・・・"とか言われGODの存在を説かれたけど、無神論者の僕としては、「どこがthat’s whyなんだ!」と突っ込みたくなる要素が満載。 彼らのうち、空港で僕らに話しかけてきた女性は...
...神殿の丘
エルサレムにてユダヤ人芸術家と食事をした次の日、昨年の夏以来の「嘆き壁」を見て、近くのアラブ料理屋にて飯を食べていた。すると、一昨日空港にて談笑したアメリカ人の一団がレストランの前を通りかかった!! 日本でいうところの「四国」と同じぐらいの面積を持つ国で、「偶然の再会」なんてことが起きてしまったわけです。この再会を喜び、一緒に色々回ることとなった。お金がなかったので両替した後、向かった場所はアルアクサモスク。嘆きの壁の上にある、イスラム教第三の聖地。 2002年9月28日午前7時半、リクード党首シャロンはこの地に足を踏み入れた。当時行われていたキャンプデービッド交渉において首相であり労働党...
...帰国、そして現実へ
先日、かの地から帰国を果たした。パレスチナも二回目となると、もう誰も驚かないものです。大学一年生の約半年で二回、パレスチナ行ったという記録は、なかなか破られないだろうと、勝手に想像する。 さて、かの地での日記も二日目で終了していた。それはなぜか。 観光で行ったつもりのパレスチナであったが、予想外に仕事が入り大忙しだったのだ。テルアビブとエルサレムを何往復したのだろうか。それは数え切れない。 実はこの団体の代表でありながらも、新規の会社に「企業渉外」を行ったことはなかった。引継ぎですら某F氏から引き継いだ某社のみであった気がする。そんな僕にとって初の新規の渉外先はなんとイスラエルの企業であった。...
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